2023年8月31日木曜日

機械的な演奏、調律の弊害

公開レッスンを受けて、最近自分の演奏に関してそして調律全般に関して感じていた事をまとめてみようと思う。


演奏と言う行為は自分の発した音を客観的に聞くと言う事が叶わないためどんな演奏になっているのかは実は自分自身はわからない。


最近長年弾いてきたレパートリーを録音して聴くと自分がピアノの前に座って弾いているイメージとずいぶんと違う場合が多い。


傾向として昔弾けなかった部分をしっかりと弾こうとしている事もあり音抜けは減ったものの何か硬い印象を受ける。


ある程度弾けてるんだろうけど魅力的ではない演奏。

肩の凝る演奏と言うのだろうか、まあ自分で聴いていて嫌になるわけですが、人前で弾く機会がある以上改善をしたほうが良いと思うわけです。



何が原因であるのかわからずにいたのですが、、今回のレッスンでその謎が解けるものがありました。


正確に弾こうとする事と音楽的に弾こうとする事はイコールにはならないと言う事実。


それを長年ピアノを弾いてきたピアニストさんの口から聞いて、納得でした。



楽譜に書いてある音を意識して、その鍵盤に狙いを定めて正確に弾こうとすればするほど音は硬くなる。


そこには外さないと言う意識だけが優先されるから。


なのでコンクールなどを目指して弾いているお子さんや学生さんはそこの意識でひたすら練習をするので音がカチっとして粒は揃うものの悪く言えば表情や音色のない演奏になりがち。


現実的にはそのような楽譜に忠実な模範的な演奏が評価の対象となるためそうせざるを得ない現実と言うのもあります。


そもそも芸術に点数を付ける事が難しいと言うか、ムリなためそのように点数を付けるしかないのです。


加えてクラシック音楽の文化が元々ない日本人においては左脳で音楽を聞くかたが多く、楽譜通りに弾いているか、ミスをしていないかを聞いて音楽そのものを聞いていないケースがあって、右脳か左脳かその割合が人によってまちまちなのですが日本人の場合左脳が優勢だろうと言われてます。


それは子どもの頃から芸術に親しむよりも計算や暗記などいわゆる学業に脳を使っている教育が中心なのが原因かと。


そして左脳的な演奏は海外では評価されない傾向にあるのかなといろいろなピアニストとの交流を通じて感じるところです。


楽譜通りに正確にテンポも乱れずみたいなのは機械がやればいいことですからね。


むろん弾けてないのにそれが音楽的だからいい事だとはならず、ある程度弾けたうえで一度楽譜から離れて表現すると言うことです。



さて、ではその音の表現がどこから出てくるのか。ですが、今回わかったことは身体全体の使いかたでありむしろそれは手や指よりも重要だと言うこと。


そしてその必要な身体の各部位の筋肉はふだんの生活と直結しており、その結果出る音はその人そのものだと言うこと。


なんとも深い世界ではありますが、裏を返せば単純でもあります。


その身体の状態、そしてそれにより出てくる演奏がどうなのか、それは事あるごとにわかるかたに客観的にみてもらわないと自分ではわからないのです。


手や指をかためてミスをしないようにひたすら練習する事はたしかに本番では安定して結果を残せる事に繋がるのだろうしコンクールでは評価されるのかもしれない。


しかし世の中に出て演奏活動をしていくとなると別のものが求められるので気付いた時に苦労して学び直す事になる。

実はそのようなかたが多いのがクラシック会の現実だと思う。



調律も似たような側面を持っている。


先日母校で研修会が行われたとのこと。

内容は検定試験対策。


参加した調律仲間からなぜか調律の測定が予想もしない結果だったとの報告。


そのかたもベテランの域にいってるわけでピッチ上げの調律ならどのように音が下がっていくか把握しているわけです。

でも会場の調律学校のピアノはそうならない。


毎日学生さんたちが調律していると言う一般的な状況ではないピアノなわけです。


世の中のピアノとは違う予測もしない動きをすると言う特殊な環境。


整調と言うアクションの調整においても土台となる調整寸法があり得ない感じになっていたりする。その上で行われる試験。


一台一台公正なうえでの試験かと言われるとかなり疑問が残る。なにせアナログなものなので個体差もある。


それらを一切排除して測定結果だけで合否を判定するのはシビア過ぎると思うのです。


そこには音色と言う概念は存在せず、機械が測定しやすい機械的な音が求められる。それは雑音的な要素が限りなくないところ。


そこを目指して日々調律をしていくとどうなるか。それこそ演奏の時の機械的な音のような世界同様にそこから脱する事は難しく、それを若い頃に身につける事はその人の感性がそこで固定される事になりかねない。



調律も芸術の世界に行き着くものであって、演奏同様に機械的なものを目指していては本質の楽しさを知る事はできなく、ただ正確さとミスをなくす事との闘いとなり苦しいばかりとなるだろう。


先の調律の件もある程度できていればよしとするくらいの幅をもたせるべきで、学校のピアノだからこうなったのだろうと言う考慮も必要ではないだろうか。


厳密さを求められる試験であるならばその試験に使うピアノもシビアに用意されなければならない。

受験するほうは相当な時間とお金を使っているのだ。


浜松でおこわれる試験のため遠方のかたは泊まりでみえる。私はまだ近いほうなので交通費くらいですが、中には一大決心、人生をかけて全国津々浦々から出てくるかたもみえるはず。


私も最初に受けた時はアクションの整調の項目で1点足らず不合格に。

たった1点されど1点かもしれないけれど、最後の集計時点で1点なら合格にしようかと言うものがないものか。完璧と言う環境とは言えない状況での試験での1点にこだわる理由はなんなのか


心が折れそうになりながらも自己研鑽のためと思い勉強を続けました。それは決して無駄ではなかったと思いますが、あまり続けていると自分の音作りに良い影響はない事はたしかでした。


その意味でも演奏におけるコンクール等も自己研鑽のためと思い自分を見失わない使い方をすれば良いですがあまりそこを目標にしていると音楽的な魅力は失われ楽器を弾く楽しさからは遠ざかるのではと思います。


なぜなら審査の基準がまずは誰が聞いてもわかる楽譜通りに弾けているかを前提とし、その上で審査員の好みの判定になるので、どうしてもミスや楽譜通りに弾く事にこだわる事になるからです。


そう言ったことを理解していたはずなのにいつの間にか陥っていたのは自分自身。

音に演奏に全て現れる。


それに気付かせてもらえピアノを弾く楽しさを改めて教えていただいた公開レッスンでした。