2020年12月21日月曜日

音楽を脳がどう捉えているか

 音楽を聴いた時の感じ方は実に様々で、最近思うのは右脳的に聴いているか左脳的に聴いているかでずいぶんと違ってくると言うこと。


ピアノの生演奏においてはそれを顕著に感じて、右脳で聴くとは音そのものや音色、会場の響きなどを主に聴いている。

左脳で聴くとは演奏そのものを例えばフレージングや間のとりかた指運びなどを主に聴いている。

そう思われる。


日本人は左脳が発達している人が多いと言われていて、要はお勉強の部分、幼い頃から学校教育をしっかり受けてくるのでどうしても感覚の部分よりは頭で考える部分がベースとなる。

それと民族的な部分も多分に関係している。


しかし実際にはフレージングや表現と言ったものは音そのものと密接な関係があり、どう楽器を歌わせるかは音色や響きなくしては立体感が生まれない。


極端に言うと左脳的音楽の場合フルコンサートグランドで弾かなくてもアップライトで弾いても同じと言う事になる。

もっと言うとCDと生演奏の違いがないとも言える。


録音はスピーカーやアンプなどの機器、置いてある部屋によっていかようにも変わるので、主に演奏そのものを聞いている場合が多いと思われる。


右脳的な場合は生演奏であっても音が立体的にならない条件下であると演奏も入ってこない。右脳により過ぎるとそう言う事になる。


左脳的に文学的に聴くと言う事もひとつの文化であるしそう言う聴き方があっていいと思う。クラシックの世界は特にそのあたり独特なものがあるのだ。


理想的にはそのどちらもあると言う状態なんだろうけど日本人の多くは左脳的に聴いている人が多いと言うのが実感。


では右脳を発達させるにはどうすれば良いか。


単純にはやはり左手をよく使う事だと思う。右利きの人が多いので左手をよく使うようにする、ピアノなんかは最適。ピアノに限らず細かな作業を左でするようにする、大変だけどよい脳の刺激になるはず。


人間の脳はその能力のほとんどを使っておらず、極端な話右脳的な感覚を発達させてやれば見えないものも見えるようになるのだ。


コンサートにおいては演奏者、会場、ピアノ、調律師、それらが揃い調和した時はまさに奇跡の瞬間となる。

何かひとつかけても感動には至らない。


まあ贅沢なことで、食べ物に置き換えるとそこそこのものでは満足しないと言う事を言う人と同義。


しかし感覚とは様々で、ある料理を美味しいと感じる人もいればまずいと感じる人もいる。

ある一定の水準はあるとは思うけれどようは好みの問題は大きい。

味の感覚が鋭くなった人からすれば条件の揃ったものでないと満足しないし食べるものが少なくなる。ちょっとしたものでは幸せを感じにくい。


しかし大きな感動とは小さな幸福感とは反比例して、なかなか出会えないからこそ得られる感動も大きい。


それは他のどんなことでも言えるんだろう。


音楽に対しては好き嫌いの感覚を大事にしたいし、自分に正直でいたい。右脳的な場合は合わないものでも条件が変われば良く感じる事もあるだろうし逆もしかり。

だからコンサートへ足を運ぶのは賭けだ。


でもそこまで求めている人も極小なのでコンサートは妥協の産物でも成り立つ。


こだわりの料理を提供するお店になりたいか、そこそこの料理を提供するチェーン店でよいのか、こだわればこだわるほど合う合わないもまた生じる。

しかしこだわりを追求するのが芸術。そもそもそれをビジネスとマッチングさせる事にムリが生じるのであって、そんな芸術家をサポートして活かしてくれる存在は不可欠。

それを様々なしがらみが邪魔をするので、そうそう奇跡の瞬間は訪れない。

日々のなかで私の個人的に感じる事であって脳科学者でもないので想像の域をでない戯言でありました。