2009年8月11日火曜日

楽器店や企業所属の調律師が何故続かないのか?

楽器店や企業所属の調律師が何故続かないか?

一般的に、調律師がお客様のところへ担当することになり、2~3年で別の担当へ変わることが多いのです。


お店の看板があるので担当が変わっても問題はないのですが、それを嫌がるお客様もいます。

ユーザーの心が楽器店から離れる要因は多々ありますが、そのひとつとしてせっかく担当の調律師に慣れて人間関係を築いたのにまた新しい人に変わってしまったというものです。



ピアノユーザーが馴染みの担当を望んでいるにも関わらず、担当が次から次へと変わってしまう。


これはいったいどういうことなのでしょうか?


女性の場合、結婚や出産という理由もありますが、実際には男女問わずあまり長くは続かないと言うのが現状です。


何故楽器店の調律師は続かないのか?




お客様からはいい仕事ですねと言われる仕事。

それなのに何故辞める人間があとを絶たないのか?




その原因を明確にするためには現代日本の社会構造から考える必要があります。


近代日本では大量生産、大量消費の構造のもとに驚異的な発展を遂げてきました。

古いものから新しいものへと物を循環させることで成り立ってきた経済大国です。


ピアノのような楽器も例外ではなくピアノバブルの時代には規格化されたピアノが大量に作られ、当時の楽器店所属の調律師は大量のピアノを次から次へと調律をすればいいと言う時代でした。

と言うより次から次へと仕事は入ってきました。



しかしバブルがはじけ、次第にピアノの熱も冷め、少子化の時代になった現代ではピアノが一昔前のように売れるということがなくなりました。



これは消費社会の中では当然のことです。そして誰しもがピアノを欲しがり飛ぶように売れた時代と言うのが実は異常だったのです。

ユーザーが少なくなれば物は以前のように売れなくなります。


それでも循環が起きていれば新しい物は売れますが、ピアノや楽器の場合は少し事情が異なっています。



大量消費社会の象徴とも言える”自動車”と比較することによりそれが明確になってきます。

自動車は時代によりデザインや機能が変化し、新しいモデルが常に発表されていきます。


またユーザーもより使いやすいもの、斬新なものを好みやすい傾向にあります。

機能面で考えても近年エコカーに代表されるようにまだまだ発展の余地があるものと言えます。


そしてなにより生活必需品であり使用頻度の高い自動車は寿命が必ず訪れます。

自動車に寿命がありピアノには寿命がないかと言うと必ずしもそうではないですが、何かしらの不具合が現れる年数には明らかな差があると言えます。そして買い替えを自然に促すメーカー側による戦略もできあがっています。


加えて自動車の故障は命に関わります。

買い替えは必須なのです。



過去の時代にピアノを他の消費商品と同様に考えてしまっていたところに大きな過ちがありました。

ピアノは年数を経てもその機能やデザインが大きく変わることはありません。

すでに100年ほど前に楽器として完成していて、むしろその維持に力を注がなくてはならない状況です。

斬新なデザインや余分な機能を取り入れたところでかえってユーザーには受け入れられないような面もあるのが事実です。


そのような特色から、買い替えが頻繁におこるものではないのです。

売るだけ売り尽くした結果、ピアノが売れなくなってしまったと言う事態に陥ってしまったのです。


メーカー側のアフターサービス体制があいまいなまま販売に力を入れ続けた結果、循環が起きず中古ピアノ業者の乱立することとなり、現在では販売店からピアノを売ることが非常に困難な状況に陥っています。



自社の製品を壊れるまで責任持つと言うアフターサービスが行われず、使わなくなるまで調律だけは行うと言った中途半端なもので終わってしまったのです。

そのような考えを楽器店の経営陣は変えることができず今日まできています。

メーカー側が高価なピアノの下取り価格を高めに設定し、ある程度価値を持たせ商品を様々な形で循環させることができれば楽器を一生お付き合いいただけるシステムとして確立できたはずです。

楽器は自動車のように売りっぱなしでは成り立たない商品なのです。



それでも現在ではピアノを販売し続けなければならないという販売店の宿命がそこにはあるので、ピアノメーカー自体がその仕組みを変えない限り変えようがないのかもしれません。

販売店は一定の台数を売らなければメーカー側からの卸のかけ率を上げられることになり利益が出にくい構造になっていることに起因します。


そのため現場の営業、そして調律師にまでそのノルマを課さなければならない状況になっています。

売れる確率が少しでもあるところからなりふりかまわず売るのです。


しかしながら調律師は大抵の場合、営業を勉強していきていません。販売店に入っても営業の研修などがない場合がほとんどです。

現在ではそのような事情も考慮され専門校等では教えるところもあるかもしれないですが、当然のことながら本分である調律技術が中心になります。


また営業のど素人であるのに加えそのようなことが苦手な部類の人間が多いのも事実です。


メーカー販売店に入れば、本業である調律業務の他に無理やりにでも販売のプレッシャーをかけられます。

ピアノを販売しなければ調律もないと言うようないかにも正統的なようなゲキが飛ぶのです。



現在ではプロ(営業マン)すら売れないようなものをどうやって売ればいいのでしょう?

ましてやピアノを、直す・メンテナンスをするために調律師は存在するのです。


車の整備士のように悪いところを修理し不具合をお客様に伝えるのが本来の仕事です。

修理できない不具合から買い替えを進めるのかどうかそこから先のお客様との交渉を通してより良い選択を提供するのは本来の営業の仕事と言えるでしょう。

それぞれの販売店により異なりますが、そのような連係もできておらず仕組みがしっかりしていない楽器店がいかに多いかと言うのが現状です。


お客様のところへ修理に行き買い替えを進めなければいけない状況は調律師にとって矛盾する苦痛でありその存在意義さえ見失うことでしょう。

そのようなことからも使い捨て大量消費の日本社会の中で調律師は矛盾を抱えた存在であると言えます。


また会社の中では人材と言うものは常に使い捨ての存在であり、割りきってピアノを売るということに専念できなければやがて淘汰され辞めざるを得ないでしょう。

会社にとって必要な人材は安い給料で調律代をコンスタントに稼いでくる新米、そして最終的には販売ができる技術者なのです。


しかしながらこれは毎年多くの卒業生が輩出されるピアノ調律専門校の循環のためにも必要なことなのかもしれません。

悲しいことですがそのような状態のどこにやりがいや職業としてのプライドを保つことができるでしょうか?


また販売店が調律師に営業のノルマやプレッシャーをかけるのは、時代とともにその必要性が増してきている調律師の力を封じ込める意味もまたあるのです。

物が売れない時代にコンスタントに現金を持ってくる調律師はありがたくもあり、片方では経営陣にとっては驚異で疎ましい存在でもあるのです。


しかし現状、新米の経験のない若い調律師は楽器店の看板にて仕事を行うためお客様からもときにはぞんざいな扱いを受けたり惨めな思いを受けることも少なくありません。

加えて給料の面でも決して恵まれてはいなく、よほどの決意、目標がないことには数年で辞めてしまうのです。


しかしそれを乗り越え技術を身につけていくことができればかすかながらの希望も見えてきます。

技術において突出しているか、営業の分野で突出するか、この2点において優秀であれば楽器店の中で生き残っていけるでしょう。



調律師の健全さを取り戻すためには楽器業界での適切な循環型社会構造の変化が求められています。