2009年4月19日日曜日

私のピアノへのアプローチ

私のピアノへのアプローチ


ピアノ、音楽、調律への私の見方と言うのは、これまでのものとは全く異なると言ってよいでしょう。

ピアノ調律師としてのあるべく姿がありそこを目指すというものが従来のものであるならば、それとはまったく逆のものとして私はアプローチしています。


それはピアノ調律師としてのあるべき姿を持ちながら日々活動をするというアプローチだからです。




より高度な技術を身につければ名だたるピアニストとの仕事が待っており、それを調律師としての最高の舞台として目指すという技術者が一般的には多いことでしょう。


しかしながらその道は非常に困難であり、道を間違えることが多々あるのが事実です。


例えその道を間違えることなく強い信念にて突破したほんの一握りの調律師になり、頂点に君臨したかのように構えることはたいして価値があることではありません。



本来の在り方を知ることができなければその目的を達成したとはいえないからです。



”調律”をする意味はなんでしょうか?




その問いに答えられない限り、ただただ技術という鎧で武装した臆病な一人のただの人間に過ぎないのです。

調律師としてのそして人間としての確固たる在り方を持っていれば、いずれそのようなものはあとから付いてくるものなのです。


もちろん技術者として技術をないがしろにしては本末転倒な話ですが、在り方がしっかりとしていれば技術をおろそかにするということはないでしょう。



近年の特に若い技術者、そして演奏家にも見られる、技術至上主義の傾向は、何も信じられないと言う人々の心、そしてそのような時代が生んだ結果であり、心をなくした人間のなれの果てでもあると言えます。


伝えるものがない音、そして音楽。それは中身がなにも入っていない豪華な外見だけを取り繕った箱であると言えます。



心ありきの技術なのです。心のない技術ではなにもその行為に対して価値がないのです。



ゴールからのアプローチであるピアノ調律を私は提言します。



ピアノや音楽は人間、自然、宇宙、そのものなのです。